空虚感の苦しみと、そこから抜け出せた要因
空虚感なのかどうか私にはわからないけれど、夕方になるととてつもなく虚しい気持ちに襲われていた時期があった。
いつ頃だっただろうか。
夫の手術の結果が出て、もう今の医学ではどうにもこうにも私たち夫婦の子供が授かれないと決定的になってから。1年くらいか・・・、1年半くらいまでか・・・、わからないけれど。
毎日ではないんだけどね。
夕方になって、だんだん外が暗くなっていく。そろそろカーテン閉めなきゃな、なんて思う頃に、私の心も虚しくなっていった。
一番症状が強く出たのは、夫が休日の時。さらに言えば、(仕事が忙しく疲れているから)夫が日中寝ている時。
虚しくて、寂しくて、切なくて、胸が痛くて、涙が出てきて、それを通り過ぎるとフツフツと怒りの感情もわいてきて。
誰に対して怒ってるってわけじゃないんだよ。ただ、なんで私は今こんなに虚しいんだろうって思ったら、腹立たしくて。そういう感情が揺れ動いて私の心を渦巻いていた。でも、そんな気持ちは誰にも話すことができなかった。
ふと、仲の良かった友達のことを思い出す。そうすると○○ちゃんは、たとえ旦那さんが寝ていたって、今頃は子どもたちと一緒にいるんだろうなぁ、とか頭をよぎってしまうんだ。考えたくなんかないのに。そんな考え頭から追い出したいのに。
ただただ、自分の子どもと一緒にいられる人、一緒にこの人生を生きていける人がうらやましくて仕方なかった。
ちょうど、この漫画の中にあるシーンと同じような感覚だ↓
「やわらかスピリッツ」連載作品『プリンセスメゾン』第17話 https://t.co/PO4D60Is7G #プリンセスメゾン
— うさ (@asuka_repro2) 2016, 1月 10
同じように学生時代を過ごしてきたのに、友達はお母さんになっていて、自分は・・・?みたいな感覚。とても共感できるシーンだ。*1
なんで私、こうなっちゃったんだろう・・・。答えの出ない答えを求めて、”なぜ?なぜ?何か私わるいことした?”みたいな考えに捉われていた。
”2人でも仲良くて幸せそうにしている夫婦もいるよ”、”好きな時に旅行にいけるよ”なんて言葉もあるのかもしれない。私は夫婦2人でやっていこうと思ってこの道を選択して生きているけれど、同じような経過をたどって夫婦2人の人生を選んだ人にこういう言葉をかけることはないだろうなぁって思う。
夫婦2人でも幸せだろうけれど、いま目の前の夫婦は心の中が地獄かもしれないから。その人が言わない限り、そうであるかどうかなんてわからないけれど、もしそうだったとしたら私がどんな励ましの言葉を重ねたとしてもまったく響かないだろうなと思う。
虚しさに襲われる時期を嫌というほど経験したので、今の私はそう思っている。私にできるとしたら、ただただ寄り添って、相手が何かを話したいのであればひたすら聞くことだけだろうな。そして、その人が、その夫婦が、悩んで悩んで考えた先に選んだ道を支持することだけだろうなぁって思う。
ちなみに、夕方の空虚感から現在は抜け出せたんだけど、その理由を考えてみたら・・・。
一つは単純に時間薬だったのかもしれない。時間の経過とともに嵐が去っていったみたいな。
あとは、休日に夫が寝室で休もうとするときに、バカ丁寧に私に説明するようになった。これは大きかったかも。自分が寝るということは、休日に妻を1人ぼっちにさせるということになる。それを夫は理解してる、分かってくれている。確か、寂しいって言ったのかもしれない・汗 あまり覚えていないけれど、基本的にはバカ丁寧な説明とねぎらいの言葉が必ずある。それが、私にとっては安心につながったのかもしれない。
それと、視野が広がったことも大きいかな。前回の記事にも書いたけれど、本はけっこう読んできたし。現在も読んでいるし。
視野が広がることにつながった要因は、twitterの影響も大きい。
メンタルが弱ると、極端にまわりの世界がキラキラに見えてしまう。まさにfacebookの世界のように。実名登録しているところだからこそ、いい部分を載せるでしょ。子供がギャン泣きして、自分がイライラしている時の写真なんて載せないでしょう。視野が狭い状態で見てしまうと(私は凹むことがわかっているのでfacebookでリアルな友人とはつながていないんだけど、想像するとという意味で)、facebookに載っているキラキラがその人の人生全てなんだろうって解釈してしまって自分が苦しくなるんだよね。
でもtwitterはだいぶ本音が語られている。細々とした問題点が至る所に散らばっている。一番私の目に留まるのは、子供がいるからこその仕事・家事・育児についての夫婦間の温度差について。特に、なんちゃってイクメンではなくて、本当に家事・育児に自分も父親として母親と同じベクトルで向き合っている人のtwitterは、こういう悩みがあるんだなぁと胸に突き刺さる部分が大きかった。
まだまだ私、知らない世界が広がっていたんだなぁと感じる。
そういう声を知れると、本当の意味で”子どもはいてもいなくても”なんだなぁと痛感する。どっちがいいなんて言えない、私は。子供を望んでいたことは事実だけど、子供がいたほうが良かったとも思えない。まさに子供がいてもいなくても、だと思ってる。
(”子供はまだ?”というように、勝手に産むことを前提とした話をしてくる人もいるだろう。非常に無責任だと私は思っている。その夫婦にとって子供の有無は人生を大きく左右する。軽々しくいう言葉ではない。ただ、そう言う人は一定数存在し続けるだろう。だから、洗脳された宗教の勧誘と同じなんだな、と今は思っている。心の中でね。)
例えばこの記事を読むと、”うわぁ・・・”って思う。
育児をする父親たちは、子どもとの「遊び」はよくするけれども、子どもの食事の用意や洗濯などの「世話」はあまりしない、という傾向があることがわかったのです。
父親たちが、家事よりも育児に積極的なのは、父親の主な役割は「稼ぐ」ことで、育児は「レジャー」ととらえる傾向があるからだと指摘されています。実際、父親たちが「育児」という言葉で語るとき、それはたいてい「世話」ではなく、子どもと「遊ぶ」ことを指すそうです。
なんか・・・、もし私たちに子供がいたとしたら、たぶん私は精神的に参っていたかもしれない、なんて思う。
まだまだ視野が狭かったころの私は、”夫はステキなパパになれる人だったのに、なんでこんな運命を背負わせたんだよ・・・”と思って絶望して泣いていた。その気持ちで心がいっぱいになっていた。
でも、視野が広がると、”あれ??”っと目が覚めた。違う考え方もできるようになってきた。確かに、子供と”遊ぶ”こと、子供に優しくできるという視点ではステキなパパになるだろう。
でも現実に子供がいる生活になったとしたら?私は、”そんな遊んでいる暇があったら、皿1枚でも洗ってよ!”と思ったかもしれない。そんなリアルな光景が思い浮かぶようになった。それに、私も”母性神話”に洗脳されているかもしれない。他の人は簡単にできていて、自分だけできない、みたいな考えに支配されていたかもしれない。
そういう視点で考えられるようになってくると、
”あれ、今の生活も、そんなに、そこまで悪くないじゃん”って思えるんだよね。
(もちろん、そういう視点も考慮した上で、子供のいる人生を選ぶ人もいるでしょう。それはその夫婦の考え方次第で変わってくる。他の選択をした方の意見を否定したいわけじゃないし、私の記事でそう捉えてしまったら、私の文章力の問題だ。)
もちろん自分の子どもに会えないさみしさとのお付き合いはまだまだ続いていくと思う。それでも、突き刺すような痛みや、虚しさはだいぶ軽減した。
それは私の中でかなり大きいと思う。
*1:次の回(18話)が公開された場合、リンク切れになるかもしれません。