何が幸せかを判断するのは自分
数日前に澤さんの引退会見をニュースでなんとなく見ていた。
その会見の中で私が印象に残ったのは、結婚と結びつけてしまうという質問に対して、「全くそれはないです。」と言っていたところだった。
映像だと、5分過ぎあたりから↓
すがすがしかった。そしてホッとした。それが私の中で感じたことだった。
どうしてそのように思ったのかうまく言語化できなかったのだが、ちょうどその部分について私もそう思う!と感じた記事を見つけた。
うなずきながら読んだ。一部引用すると・・・。
そもそも「女性としての幸せ」が何を指すのか想像するだけで時代遅れ感がハンパないが、まあ要するに恋愛や結婚や子育てを指すのだろう。あたかも澤がサッカーのためにそれらを犠牲にしてきたような言いっぷりだが、前述したように実際は犠牲にしていない。仮に犠牲にしていたとしても、他人から「女性としても幸せに」なんて言われるまでもなく、十分幸せな人生を歩んでいるように見える。
なぜなら、幸せは「仕事として」「女性として」なんてジャンルで分けられれているものではないからだ。結婚が幸せと思う人もいるだろうし、仕事が幸せと思う人もいれば、仕事も結婚も両立できてこそ幸せと思う人もいるだろう。それは人それぞれで、他人が「あなたは女性としての幸せが欠けているから、そちらでもお幸せに」なんて判断すべきことではない。
まったくそう思う。
何が幸せかを判断するのは自分なんだよ。他の人から言われる幸せを実現したところで、それが自分にとっての幸せと必ずしも一致するとは限らない。
そうであるはずなのに・・・、一定数いるんだよ。結婚やら出産やら子育てが女性にとって幸せだと信じて疑わない人が。
例えば、
自分は出産できて幸せだと思っている。という言葉に対しては”そうなんですね”と思う。ただその先に”だからあなたも”と続くのだったら”それは違うだろ!”って思う。
これは出産の部分が結婚とか子育てに置き換えても同じだと思う。
あなたはそれで(結婚したこととか、子どもを産んだことで)幸せになったかもしれないけれど、それを目の前の人に促して結果そういう道に進んだとしても、その人が幸せになるかどうかはわからない。ただ、”自分いいこと言ってる!”という自己満足に過ぎないよね。
あ、そうそう、これをクソバイスというみたい↓
あなたの周りに「ためにならないアドバイス=クソバイス」を言う人はいませんか?言われたときは心がスカッとすることを言い返しましょう😁どんな返しをしたらいいかが書いてますよ!『言ってはいけないクソバイス』犬山紙子著 ポプラ社 pic.twitter.com/s6GHVKhRCF
— 宮脇書店帯広店 (@miyawakiobihiro) 2015, 10月 20
”それな!”って的確な言葉だなぁって思う。
大事なのは、自分の道を自分で決めることなのに、なぜか同調圧力がジワジワ押し寄せてくるんだよね。
”そんなの気にするな”、”人は人、自分は自分でしょ”って言えちゃう人もいるだろうけれど、ある程度の年齢になるとグラグラ心が揺れるんだよ。そのちょうど揺れてる時に、伝家の宝刀のごとく斬りつけてくる人がいる。しかも斬りつけている人は自覚もなく、良かれと思って言ってる場合もあるから非常にたちが悪い。
私が子供産めないということが決定的になった時にジクジク心を侵食していたのが、こういう”女性の幸せは○○”みたいなイメージだった。それに気づいたのはある程度時間が過ぎてからだった。あまりにもすり込まれすぎて、その時は自分でも気づかなかった。
子供を望んでいた時、そしていつか産めると思っていた時は、”自分が望んだことだから”と思っていた。でもそのレールから外れてだんだん冷静に考えられるようになってくると、自分が望んだことでもあるけれど、まわりからそう思わされていた部分もあったんだなぁとわかった。
すり込みって本当に怖い。
まわりからそう思わされてきたという部分に関しては、ジェーン・スーさんと男性学の田中俊之先生との対談でも語られている。
6分過ぎから↓
<40男>はなぜ嫌われるか 2/3 ジェーン・スー×田中俊之
全部そろっても、扉は開かない。ただ日常が続いていくだけ・・・。
ドラゴンボールの例えがわかりやすい。シェンロン出てこないし!
スパッと気持ちを切り替えることはとても難しい。数十年ものすり込みはやっかいだし、まだまだクソバイスを飛ばしてくる人はいるだろうから。
でも、このカラクリがわかっただけでも私にとっては大きかった。すり込みもあったということに気づければ、それを徐々に修正する方向に意識を持っていけるから。
何が幸せなのかを判断するのは自分。それはしっかり自分の心に留めておこうと思っている。